1989年ベルリンの壁が崩壊し、ソ連を中心とした共産主義体制、社会主義体制の国家は軒並み国家体制を転換しました。
米国を中心とした自由主義体制、資本主義体制の勝利が謳われました。

それから30年。あのころ想像した未来に私たちは立っているでしょうか?
世界の一強となった米国は、ネオコン、ティーパーティ、そしてトランプを支持するラストベルトの白人社会層との間でフラフラ揺れ動いています。

そして日本は90年代初めのバブル崩壊が一つの契機になり、それまでのいわゆる日本型経営から「米国式」経営への変革が声高に叫ばれました。
何が「米国式」なのか。識者や経営者は、「競争主義」「実績主義」を指しているようです。
「終身雇用」「年功序列」を基軸とした日本的経営の行き詰まりから、「米国式」経営の導入を目指し、コーポレート・ガバナンス導入の掛け声のもと、様々な組織改革が行われました。

その後ネットバブルの崩壊、リーマンショックなどもあり、この『改革』に対する揺り戻しの動きもありますが、「実績主義」「競争主義」への信奉はオーナー経営者を中心に未だ強い支持があります。

ここでは、「日本的経営」「米国式経営」のどちらが良いか、といった議論は行いません。
主題は「競争主義」あるいは「競争原理」に対する誤解を指摘することです。

経営者の多くが、「競争原理」は良いこと、あるいは必要なことである。と誤解があります。
ある経営者は自社のホームページでダーウィン進化論を引き合いに出し、競争社会で勝ち抜くため、社内にも競争原理を取り入れていると述べていました。

ダーウィン進化論でよく言われる話が、生物はいろいろな過程で突然変異(つまりミスコピー)をおこし、様々な種が生まれる中で、弱い種は淘汰されて、強い種のみが生き残った。というものです。
これが競争原理のもとであり、したがって競争原理は自然の摂理である。と主張します。

しかし、その説に従えば、淘汰された多くの種の化石がもっとたくさん見つかっているはずです。
例えば猿から進歩した人間の間には、淘汰された無数の中間種(類人猿)がいるはずで、これがいわゆるミッシング・リングの問題点と言われるものです。

一般システム理論を打ち立てた生物学者のベルタランフィは、生物が持つ「自己維持システムは淘汰の結果ではありえない」と述べています。
有機物が偶然に結合して様々な生物が生まれ、その中で淘汰を繰り返し偶然に現在の種が生き残った。というのが、物理学、特に熱力学法則(エントロピー法則)をベースにした生命の進化です。(そうでなければ神=造物主の存在を導入するしか無い)
しかしベルタランフィは、一般システム理論の中で、生命を開放系システム(サイバネティクスで言うフィードバックシステム)と捉えることで、淘汰を前提にしない「進化」の形を提唱しました。

つまり競争原理が自然の摂理である。というのは間違いか誤解であるということです。

競争とは何か

そもそも競争とは何でしょうか?
「競争原理」の定義をすれば、限られた資源に対し、それを欲するものが奪い合う行為です。
昔「1杯のかけそば」という話がありましたが、家族3人に、かけそば1杯しかなければ、奪い合うしかありません。これが自由競争。
親が子供に競争を禁じて、強制的に3分の1にして分配するのが規制です。

つまり競争とは需要と供給が不均衡で、供給を需要が上回ったときに起こる現象です。
かけそばの例では、家族3人が満足できる量、3杯分のそばがあれば、競争をする必要がありません。「1杯のかけそば」の話では、必要な量の供給ができない親に最大の原因と責任があります。

企業で言えば、競争をしないと必要な給与を得られないのであれば、それは必要な資源(給与総額)を提供できない、経営者に最大の責任があるということです。
無論、社員全員が満足できる給与を払える利益を上げるのは、簡単なことではなく、現実には競争は避けられません。しかし経営者自身が得意げな顔で「我が社に競争体制を導入する」というのは、まるで自分の無能さを自慢しているかのように聞こえてくるでしょう。

マイケル・ポーターの非競争戦略

中学校か高校の経済学で、アダム・スミスの「完全競争」を覚えている人は多いでしょう。
完全競争の下では、神の見えざる手によって(正しくは経済メカニズムで)、自動的に一定の価格に落ち着く。
あたかも、神の意志で理想状態のように言われますが、完全競争下で、決められた価格水準は、どの企業も利益が全く出ないゼロの状態です。
利益がなければ、昇給もみたいに向けての投資も起きません。イノベーションや技術革新もなし、という状態です。
私にはこれが理想的、もしくは理想に近い状態とはとても思えません。
ちなみにこの完成競争の前提として、供給側は多数の企業がいて、その企業も価格に影響をあたえられない。参入障壁や市場退出のコストがない。どの企業の商品も同じ品質で差別化がされていない。市場参加者(企業や消費者)の間に情報の偏りがなく、皆すべての情報を知っている。という前提があります。

経営学の教科書で最も有名なのは、マイケル・ポーターの「競争の戦略」ですが、この内容は、企業はいかにして競争から逃れることができるか。ということが語られています。
つまり「非競争の戦略」。
なぜなら競争から逃れないと「利益を得ることができない」からです。
そのため必要なのが、差別化。
他の商品となぜ「差別」しなければいけないかというと、競争をしないためです。

差別化できない商品をコモデティとよび、激しい競争(価格競争)に巻き込まれます。
競争の先に勝者はありません。完全競争状態、つまり参加者が皆利益がなくなった状態になります。(そしてその中でも個々では競争が行われ、市場参入と退出がひっきりなしに行われています。)

個人においても差別化が最も大切で、決して競争することは必要なことでも、ましてや良いことでもなんでもないのです。

ダーウィンに話を戻しますが、いわゆる淘汰されるのは競争ではなく、新陳代謝です。
たえず変化する新たな環境に耐えられなくなった古い種あるいは個が「淘汰」されます。

ダーウィン自身も述べています。
『最も強い者が生き残るのではなく、
最も賢い者が生き残るのでもない。
唯一生き残るのは、変化できる者である』